後藤新平・新渡戸稲造記念拓殖大学高校生・留学生作文コンクール優秀賞受賞作品


「国境を越えて」

 

2015年夏。在日コリアンが通う高校のボクシング部のマネージャーである私は兵庫県西宮市で開催された、全国高等学校総合体育大会ボクシング競技に補助員として参加しました。競技は約1週間にわたり開催され、その間私は日本の学校の選手やマネージャーと寝食を共にすることになりました。食事も一緒に寝るのも私の知っている朝鮮学校の友人ではなく、日本学校の友人。一週間やっていけるか不安で何度帰りたいと思ったか自分でも覚えていません。私にとって日本の学校に通う同年代の学生たちと生活するのは初めての体験だったからです。

初めは愛想笑いしかできませんでした。他民族という、目には見えない大きな壁があったのです。そんな壁を打ち砕くように私に話しかけてくれたのは、ある同じ年のマネージャーでした。彼女は私にとても親しく話しかけてくれました。何のためらいもなく私の名前を呼んでくれるのがあまりに嬉しく既に帰りたいという気持ちは消えていました。競技が本格的に始まり朝起きる時間も早くなっていきました。朝起きると彼女は私に話しかけてくれました。「おはよう、まだ眠いよね。」何の変哲もないただの朝のあいさつ。彼女は毎日当たり前のように「おはよう」と、私に言ってくれました。食事時間に同じ机で食べるのが当たり前。競技の間に「お昼ご飯食べた?」と聞くのが当たり前。1日が終わると「今日もアイス食べる?」と、笑って聞きあうのが当たり前。アイスを食べながら「今日こんなことがあったんだよ!」って話し合うのが当たり前。学校の友達の間ではよくある会話。でもこの会話をしているのはほんの数日前に出会った日本学校のマネージャー。私にとって新しい当たり前でした。彼女だけでなく選手達も先生方も同じでした。朝も早く一日が終わるのも遅かったので、「気分悪くない?」「体調大丈夫?」など、とても気遣ってくれました。決勝戦が行われた最終日。私はこの日に帰る予定でした。今日帰ることを同じ年のマネージャーに伝えると彼女は言いました。「今日帰っちゃうんだ……」と。私も帰りたくありませんでした。ほんの一週間前に出会った日本人の選手やマネージャーとこんなにも別れが惜しくなるなんて思ってもいませんでした。決勝戦がおわり後片づけをしている時、先生に呼ばれました。先生は私にもう一泊していいと言ってくださり私はその日も泊まることになりました。私はまっしぐらに彼女の元へ走っていきました。「もう一泊していいって!」と言うと「ほんとに!?やったね!」と二人で喜び合いました。晩御飯の時間になりその日もまた、お同じ机で食事をしていました。すると彼女の学校の先生が「12時にここを出るよ。」と彼女に伝えました。本当にもう帰ってしまうと考えるとこの一週間をもう一度最初からやり直したいと心の底から思いました。彼女は言いました。「明日のお昼くらいまで残ると思ってたのに。もう当分会えなくなるね。」と私の手を握りながら言いました。こんなにも別れ惜しく思ったのは初めてでした。12時まで部屋でアイスを食べたりいろんな話をしてすごしているとすぐ12時になりました。

私は彼女達を見送るため一緒に下に降りていきました。少しするとか彼女の学校の先生が降りてこられ私にこうおっしゃいました。「この期間彼女と仲良くしてくれて本当にありがとう。」

本当に感謝しなければならないのは私でした。また壁を作っていたのも私自身でした。差別を受けるこの社会の中で日本人と話すことに対していつしか違和感を抱いてしまっていたのです。しかし彼女は私を一人の高校生として接してくれました。今まで私たち在日朝鮮人はヘイトスピーチなど心ないことばや差別を受けてきました。私たち朝鮮人が何かしたのだろうかという憤りもある半面、それが仕方のないことだと諦めていた自分もいました。そんな中、国籍や民族が違うと知りながらも体調を気にしてくれる日本学校の先生方の姿を見て私達の存在を理解してくれる方々もいらっしゃるのだと知り強く生きていこうと思いました。それだけ今回出会った方々は私の中で大きな存在となったのです。

彼女と選手達が車に乗り窓を開けて言いました。「ありがとう本当に楽しかったよ!」車にエンジンがかかり大きく手を振っている彼女達を乗せた車が発車する間際、私は彼女と約束しました。

「3月の選抜でまた会おうね。」

なぜ今までこんなにも簡単なことができなかったのか。今回きっかけをくれたのは他でもない私が違和感を持っていた日本の友人でした。朝鮮人と日本人が国境を越えて一日も早く互いに手を取り合える日がくることを強く願いながら、今度は私がそのきっかけになりたいです。